学問としての歴史学と国民を育てる歴史教育では目指すところが異なります。したがって歴史教育は歴史学の僕ではありません。しかし、だからと言って歴史学に敬意を表さないところに歴史教育もありえません。歴史学に学び続ける姿勢を大切にします。
ということで今回は天皇の始まりのころの話です。
大学の歴史学(古代史)では神武天皇は実在した人物ではなく、古事記と日本書紀の編者が創造した人物だと考えられています。また、9代目までの天皇(綏靖・安寧・懿徳・孝昭・考安・孝霊・孝元・開化)も実在していないと考えられています。
これが歴史学の常識なので「実在したことを実証はできないが、実在していないことを実証することは不可能です。これをどう考えたらいいでしょうか?」という問いは、とくに天皇については通らないようです。
史料から主観的要素や神秘的な要素、非合理な要素などを取り除き、証拠に基づいてあったこととなかったことをより分けます。例えば太安万侶も稗田阿礼も実在が疑われていましたが太安万侶は墓誌が出てきて実在の人物になりました。しかし稗田阿礼は生年も没年もわからず、日本書紀にも続日本紀にも出てきませんからいまも疑われているといった感じです。ただしこれはこの間勉強していた感想ですが、
ただし、太安万侶や稗田阿礼のような古代史の人物の実在・非実在を厳密に扱ったら「古代史学」そのものが成立できないので、実際にはそのへんをアバウトに扱って研究しているようです。ただし、初期天皇だけは厳密に「実在していない」とされ、それが今日の歴史学者の条件になっているようです。
これはたぶん先の戦争と敗戦がその理由でしょう。
近現代の日本がある意味で「神話国家」だったことと、それに対する歴史学の反省ということがあるようです。天皇についてだけは特に念入りに「神話的人物」と「実在の人物」を分離したいのです。これはあの戦争と敗戦のとらえ方の問題でもありのですが今回はそこについてはは問いません。
また実在したかもしれないが、今上陛下から血筋がたどれるのはどこまでか?という議論もあります。これは諸説ありますが、大学では継体天皇までというのがだいたい常識になっているようです。それまでは大和王権は諸豪族の回り持ちだったんじゃないかと考えられているようです。ですから「万世一系」などというのは歴史学的にはたわごとという話です。これも常識のようです。
どうしてそういうことになっているかといえば、これはやっぱり「戦前への反省」です。津田左右吉や美濃部達吉といったまともな学者たちをファナティックに弾圧した戦時中の政府や言論界に抵抗できなかった当時の学問への反省があるのだと思います。あの時代の日本は「神話国家」に行き過ぎたきらいがありましたから、それもわかります。
まあ、戦争しなけりゃなりませんのにもともと殺し合いを好まない日本民族です。その国民を、国のためなら命がけというところまで持っていくためには、そのくらいの仕掛けも必要だったのかなとも思います。しかし学者は学問の自由を守れなかったことを反省するでしょう。それはそれで正しく健康なことだと思います。
歴史学者の反省はこの時代のちょっとオカルト的な皇国史観に向かいました。神話を歴史事実としてほんとうのことと扱ってはダメだとなったわけです。
論理の筋道はこうです。
古事記・日本書紀は天皇の権力の正統性を主張した政治文書であるというとらえ方がまずあります。したがって編纂を命じた天武・持統や当時の権力中枢にいた藤原不比等などの「自己正当化」という意図で編集されていると考えます。だから伝承された神話や先祖の物語は史実とは異なり国家権力に都合よく創作されているだろう、となります。
神武東征から日本の歴史が始まり、神武が初代天皇に即位する。それからずっと男系継承が続いている。したがって歴代天皇は天照大神の直系の子孫である。神のごとき存在として国を治める正統性がある。その系譜は長ければ長いほうがいい。そのために実際にはいなかった天皇を創作して年齢もありえない長寿にした。権力の正統性を守るために何度かあった(はずの)「王朝交代」も隠しているのだ。などなど。神武天皇は神話上の人物であり、事績の残されていない2代から9代までの天皇は創作された人物であるとなります。
では古代史学者はどこからが実在した天皇とみなしているのでしょうか。
これは諸説ありますが第10代の崇神天皇からというのが一般的なようです。崇神も「ハツクニシラススメラミコト」ですのでこれを初代天皇とみなす理由もあります。
また発掘が進んでいる纏向遺跡が10代から14代までの宮があった場所だと考えられています。ただ纏向の考古学的な遺物が崇神天皇につながる証拠となるわけではないので、まだ実在とは言い切れないという立場もあります。考古学的な事実を重視する場合は、第21代雄略天皇(書紀では大泊瀬幼武天皇)になります。埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘に象嵌された「獲加多支鹵」が、書紀の「幼武」や古事記の「若建」と同様に「ワカタケル」と読めると考えるからです。
この実在・非実在もんだいとは別に、天皇の血筋がどこから続いているかというとらえ方があります。
つまりいわゆる万世一系がいつからなら言えるかという問いです。
これも諸説あるようですが、第26代継体天皇からと考えるのが一般的なようです。武烈天皇が後嗣を残さずに崩御したので越前にいた「ヲホドノオオキミ」が即位しました。応神天皇の五世の来孫(子の子の子の子の子)に当たるとされました。ここで王朝が交替したという説と、記紀の記述をほぼ認める「傍系の皇族」説、また、継体天皇以前は大和王権を構成した主要豪族が交替で天皇(オオキミ)になっていたとする説などがあります。
ここでわかるのは、天皇の実在や血のつながりを厳しく「実証」するというのが原則ですが、何をもって「実証」とするかは学者によってかなりまちまちであるようだということです。
そうでありながら、9代目までの天皇についてはアカデミズムのほぼすべてが「非実在説」というのもやや奇妙な気がしないでもありません。ただ学者たちが一致してそう考えるのにはそれなりの理由があるのだと思います。
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