一神教の教義の場合は「正統」でないものは「異端」であり排撃の対象になる。
王権や統治権の場合は「正統」でなければ「簒奪」になる。易姓革命では簒奪してしまえば「正統」になる。
ただし同一王朝内での「正統」の対は「傍系」または「閏位」になる。
南北朝正閏問題では、南朝も北朝も同一王朝内部の継承問題だが、「万世一系」という思想にもとづいて「正統」か「閏位」かが激しく問題にされているわけだ。だが、こういう問題の立て方自体が中国思想(簒奪=易姓革命)ではないかという考え(日本らしくない)もあった。
南朝正統論のはじめは北畠親房『神皇正統記』だが、この「正統」は「しょうとう」と読んで、神武から後村上に至る「父子一系」の血統を指している。この一系の系統こそが「まこと」であり「皇位継承の本体」だと考えられている。この意味では、北朝も南朝もどちらが正統(しょうとう)とは言えないのだが、北畠親房は南朝を正統とした。
同様の論理で南朝を正統とした徳川光圀『大日本史』は、「三種の神器を持つ側が正統(せいとう)」という新しい条件をつくり南朝を正統とした。しかしこれも実際は南北行ったり来たりしているのだから(とくに璽は)、史実に照らせばこれもすっきりとは決着がつかない。
【注】実は徳川幕府の官学だった林家は南朝も北朝も正閏をつけないという立場だった。光圀はそれを覆したかたちになっている。
文科省の国定教科書が「南北朝並立論」を採用したのは、実証史学の学問的な誠実や近代的合理主義ということもあるが、大日本帝国憲法が施行されてすでに20年経過して、明治の官僚たちが立憲君主制に自信を持ったこともあるのではないかと考えている。
長い武家政治の誤りを正して王政復古し「天皇親政」に復したと考えられた明治草創期には、「建武の中興」という歴史観は必須のものだった。
しかし、実際の明治政府は「天皇親政」ではなかったし、この時代の立憲君主制も「天皇親政」ではない。
この政体で日露戦争も勝ったのだから、今後は史実に即して「南朝と北朝が並び立っていた時代」としたほうがよい。天皇は「統治権者」だが、親政を行う「権力者」ではないのだから。また、何よりも明治天皇は北朝の天皇陛下ではないか。文部省としてはそれも配慮すべきだ。喜田貞吉や三上三次そういう考え方だっと思われる。
【注】国定教科書は「児童の道徳教育に配慮して」、南北朝の正閏は定めないとしても、楠木正成を忠臣とたたえ、足利尊氏は逆臣としておとしめた書き方をしている。がそれは臣下の問題であり、それを皇室にまで及ぼすべきではないという考え方だった。
それが大逆事件と関連付けられて「子供の道徳教育に問題がある」と批判された。教育現場や教師教育にかかわる人々、私学系の漢学者(朱子学者)などが中心になり、啄木や鴎外らも巻き込み、最後は野党の党利党略もからんできた。さらに日露戦争後のメディア(朝日新聞・読売新聞)が煽った。国民の多くも学校で教わってきた南朝は正しく北朝は間違いだという考えは当たり前だと思っていた。「ハイカラ」な学者が何をバカなことを言っているのか!
政治問題化して衆議院で議論され、桂太郎内閣はおよそ次のように政治決着をつけた。
①明治天皇の勅裁をあおぐ。②文部編修の喜田貞吉を停職処分にする。
明治天皇に提出された案文(山県有朋)には次のようにあった。
①皇統は一系にして天に二日なきは我が国体の基本であり、国民道徳の源泉である。
②維新以来朝廷では南朝の忠臣と南朝正統論を支持し称えてきておりそれは国民の信念でもある。
③今後教科書は、南朝の後醍醐・後村上・後村上および南北朝合一後の後小松天皇を皇統とし、光厳・光明・崇光・御光厳・後円融天皇歴代に記載しないことと。
明治天皇はこれを裁可したが「消極的」裁可であったと言われてきた。これほどの重大事ながら勅書にはされず、官報にも掲載されなかったからだ。北朝の子孫として「南朝正統」を公的には確定したくなかったのではないかといわれる。
また明治天皇はこのとき「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対する尊号・御陵・ご祭典等すべて従来のままとする」と命じている。
オフィシャルには山県に従うが、天皇家としてはそれを受け入れず、北朝の天皇もこれまで通り皇統と考える(閏位とは考えない)ということだと思われる。天皇はプライベートだと考えていたがやがて宮内省と文部省の違いになる。
政治決着後、問題は文科省教科用図書調査委員会に差し戻されまず部会で議論された。教科書の記述についてこのときの議論は三派に分かれたという(小山常美)。
①北朝抹殺派・・・「吉野の朝廷時代」とする。北朝の天皇は「親王」とする。北朝に関する史実は書かない。
②主流派・・・・・「吉野の朝廷時代」とする。北朝の天皇も「天皇」とする。北朝に関する史実も書く。
③史実派・・・・・「南北朝時代」とする。北朝の天皇も「天皇」とする。北朝の史実も書く。
部会では②の案で決まった。この案の議論の過程を見ると、「南北朝」ではなく「吉野の朝廷」としながら、明治天皇と皇室内のことをおもんばかって「天皇」という称号を残したものであったことがわかる。
総会でも喧々諤々の議論になったが最終的に部会の案が了承された。
しかし、小松原文相は閣議に提出するにあたって、この総会案を「北朝抹殺派」の方向で修正た。これが第二の政治決着となり教科書記述は以下のようになった。
【第二十一 北条氏の滅亡】
<北条高時>
・・・ここにおいて天皇は遁れて笠置山に行幸し給ひ、高時は量仁親王を擁立して天皇と称せり。これを光厳院といふ。やがて賊軍攻めて笠置を陥れるに及び、高時は天皇を隠岐に遷し奉り、御謀にあづかりし人人を或いは斬り或いは流したり。
<政権朝廷に返る>
・・・後醍醐天皇は行在所を発し給ふ。すなわちち先ず光厳院を退け、京都に還幸して親(みずか)ら万機を統べさせ給ふ。
【第二十二 吉野の朝廷】
<吉野の朝廷>
尊氏は賊名を避けんがために、豊仁親王を擁立して天皇と称せり。これを光明院といふ。ついで偽りて降り、天皇の還幸を奏請せり。天皇すなわち義貞に勅して、皇太子恒良親王を奉じ、北国に赴きて恢復を図らしめ、かりに尊氏の請を許して京都に還幸し給ひしかど、間もなく、神器を奉じて吉野に還幸し行在を定め給ひき。時に延元元年(紀元一千九百九十六年)なり。これより、世に吉野の朝廷を南朝といひ、尊氏のほしいままに京都に立てたるを北朝といふ。
こうして国定教科書が定まった。北朝の天皇は「院」とよばれることになった。これが小松文部大臣(桂太郎・山形有朋ら)の第二の政治決着となった。
また、問題になった国定教科書の教師向けの注意欄「本課の要旨」にあった「・・・偶々時を同じくして南北に対立し給ひし一時の現象にして、容易にその間に正閏軽重を論ずべきに非ざるなり」は否定されて、次のような記述になった。
<本課の要旨>
本課においては建武の中興の業挫折し、姦滑なる尊氏が勢いに乗じ皇族を擁して私をなし、吉野の朝廷に移るのやむを得ざりるに至りし事情を知らしむと共に、北畠・新田・楠木・名和・l菊池等諸氏が何れも勤王の赤誠を致し、父子兄弟相継ぎてその節を変ぜず、一意王政の復興に努めし事績を説き、児童をしてこれら忠臣の人となりを敬慕せしめ忠君の精神を涵養せんことを要す。
こうして南北朝正閏問題は政治的に決着を見た。
結果は「南朝正統」に止まらず、北朝の天皇は天皇ではない(即位していない)ことになった。
そして学校ではそう教えられることになった。ただし、歴史学がそれを強制されたわけではない。学問の自由はあるとされた。しかし実際は高等教育や歴史学にも影響が及ぶ。問題がかまびすしいころには、三上参次には「家を焼く」とか「要撃する」などの脅迫状が届いている。三上はこう回想している。
「ものの激する勢いというものは非常なものだ。(北朝は「天皇ではない」とするなどということは)大変に行き過ぎたことであった」
【注】喜田貞吉は次のような心配もしていた。
「光厳天応が即位していないということになると律令の規定から困ったことが起きる。第102代後花園天皇は光厳天皇の玄孫だが、光厳天皇が即位していないことになると、後伏見天皇の五世王にあたることになる。律令の規定によってこの「五世王」は「皇親」ではないので後花園天皇の即位の正統性が困ったことになるのではないか」
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