なかなか伝わりずらいことをやっています。
「皇国史観」とか「皇国史観教育」というと、一方には、よかったしそれがなくなったから戦後教育はダメになったんだという意見があり、他方ではそれが軍国主義教育そのものであり国民を戦争に駆り立てた元凶だとして全否定する意見があります(こちらが教育界の圧倒的多数です)。しかし、両方の意見が「同じ事実」を見ているかというとそこが怪しいように思えます。自分に照らしてみても、実際はどうだったのかを見極める作業が不足しています。
南北朝正閏問題は当時の日本人の「考え方」を知るうえでひとつのわかりやすいケーススタディになると思われます。何が見えてくるかは実はよくわからないのですが、お付き合いいただけたら嬉しいです。
さて、前回前々回と明治最初の国定教科書が南北朝をどう書いていたかと、編纂者たちがどんな考えでそうしたのかを見てきました。ここまででわかるのは、喜田貞吉たちはそれまで教科書で常識だった「南朝が正統である」「官軍と賊軍の争い」などの記述に対して、「国定教科書にふさわしいのは?」という観点から「南朝も北朝も共に正統とみなす」新しい提案をしたことがわかります。
今回は、喜田がこのような執筆に至った考え方を著書の『国史之教育』から見ておきます。
喜田は歴史には3つあるといいます。
①学問として研究する歴史(純正史学)
過去の事実をありのまま明らかにする。
②一般に世人の目に映ずる歴史(歴史物語)
善人と悪人をしばしば極端化することがあり、歴史を道徳教育に生かす上で妙味がある。
③普通教育に応用する場合の歴史(応用史学)
「善良なる国民を養成するのが目的」
歴史上の精密な知識や重箱の隅をほじくるような話は必要ない。日本の歴史は他国に比べて善美であり、歴代天皇は聖君である。ときにいかがわしいことがあってもそれは「細かいこと」である。これらが①との違いであり、普通教育家はこの「大体」をはずしてはならない。
このように喜田の歴史教育観はいわゆる「国体史観(皇国史観)」に立っています。「日本は万世一系の天皇が統治する国で、君臣の分が定まり、忠孝両全の善美なる国体である」という歴史観です。
ところが、①で国体史観と矛盾する史実が明らかになる場合は、「例外」「変態」として教育内容から切り捨てるか、教育的叙述によって「純正史学」との矛盾の調和をはかるようにするとしています。
喜田は、「国民としての志操を養うのに不都合な史実はすべて教えるべきではないということではない」として、「南北朝論」という論文を書きました。ここで以下のように南北朝時代についての考えを示しています。
「俗に臭いものには蓋を為す場合には、厳封して臭気が漏れぬようにしなければならないが、それは民を愚にして歴史上の一切の知識を得る道を奪わない限り不可能である」。南北朝正閏問題はまさにこのケースである。純正史学の発展と研究潮流を踏まえて、応用史学においても、南北朝並立としたうえで、天皇レベルではなく、臣下のレベルでのみ善悪を書きこめばよいと考えるのである。
このあたり、気持ちはよくわかるが、理屈の筋はちょっと苦しいのですね。後醍醐天皇を「天皇親政・中興の祖」と意義付ける明治の空気(後期水戸学など)は喜田や三上も共有していたからです。
そこで後の論争において、反対派からこう攻撃されて返答に窮することがありました。
「北朝が南朝とともに正統であると認めながら、『尊氏の徒は忠臣とすべからず』(三上参次)とするのは理屈上矛盾しており、それこそ生徒の最も理解できないところとなるのではないか?」
ここが喜田・三上ら文部省のアキレス腱になりました。
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