文科省国定教科書が南北朝を並立のかたちで記述したことへの代表的な批判は次のようなものです。
「水戸義公(光圀)以来確定したる史論にもかかわらず、国定歴史教科書は、三上、喜田両博士の意見により、ことさらに、南北朝を対立して、その正閏を定めず、楠木正成の忠誠をもって、逆賊足利尊氏と同一視するに至れり。大義名分の没却も極まれりといふべし。」(豊岡半嶺・読売新聞記者・師範学校系)
そして大義名分を明確に教えないと、子供たちの道徳心はさまよい、アナキズム(大逆事件)に至るという。
豊岡半嶺の教科書記述に対する具体的な提案は次のようなものでした。
・南朝を正統、北朝を閏統とする。
・南朝の天皇は「〇〇天皇」、北朝の天皇は「〇〇帝」(天皇ではない)とする。
・南朝の軍は「官軍」、北朝方は「賊」「賊兵」「賊軍」とする。
やがて、「北朝」と呼ぶこと自体を排して南朝を「吉野朝」とし、南北朝時代も排して「吉野朝時代」としようというふうに進んでいった。
読売新聞や朝日新聞があおり、世論が過激に走り、議論もより過激になるという流れは、戦前に限らないことですが。
また豊岡は読売新聞の論説で次のように書いている。
「武門政治を転覆し、征夷大将軍を廃した明治維新という大業を成し遂げたのは、徳川光圀や頼山陽が南朝を宗とした尊皇論を強調し、聖上(明治天皇)もご自身は北朝の後胤にもかかわらず南朝の元勲に贈位などして大義名分を明らかにした」
それなのに、いま文部省がこれとは反対のことを子供たちに教えようとするのは間違っている。
「天に二日なきごとく、皇位は唯一神聖にして不可分なり。もし両朝の対立をしも許さば、国家のすでに分裂したること、釈然火をみるよりも明らかに、天下の失態これに大なるはなかるべし」
日本帝国において人格を判定する標準は、知識徳行の優劣より国民的情操、すなわち大義名分の明否にある。しかしながら、今のごとく個人主義の日に発達し、ニヒリストすら排出する時代において、南北朝対立を教えたならば、反逆幇助を奨励することになるだろう。(千葉功『南北朝正閏問題』より)
南朝正統論の背景には、「尊王攘夷」をエンジンとした明治維新・王政復古のイデオロギーがある。その大本には『大日本史』『日本外史』や後期水戸学がある。朱子学的な大義名分論で後醍醐天皇を崇敬し、忠臣楠木正成を尊敬する。
それは明治4年以来の初等中等教育を通じてすでに国民の常識になっていた。近代的な日本国民を育てて日露戦争を勝利に導いたと自負する師範学校や教育界全体の常識でもあった。
ところが文部省の国定教科書は南北朝対立(並立)論で書かれている。びっくり仰天してメディアから国会まで大騒ぎになった。
彼らの意見を見ると「ハイカラ学者」という言葉がよく出てくる。
政府・文部省にいる官僚たちは西洋崇拝の洋学かぶれであり、個人主義者であり、ニヒリストであるというニュアンスがある。それに対して後期水戸学を引きずる漢学の徒は草莽であり国家を憂える志士だった。
世論に後押しされた草莽勢力が、政府・文部省・歴史学という西洋かぶれの「権門」を突き上げて正すのだという構図が見えてくる。
この構図はやがて、大日本帝国憲法をめぐって「近代日本の国体論」に対する疑念となって噴出することになる。
憲法は「天皇親政ではない」と考える政府・大学主流派(天皇機関説)と「天皇親政である」と考える民間・大学反主流派の闘争である。
このときもメディアや世論は後者を支持するが、それはもう少し後の話になる。
南北朝正閏問題は大きな社会問題・政治問題になった。
多くの論者がメディアの出て自分なりの意見を発表した。南朝正統論が大勢だったがそのなかにも多様なニュアンスがあった。文部省を支持する南北朝並立論もあった。また少数だが北朝正統論もあった。
議論は沸騰したが、その後の時代と異なるのは、みなが言いたい放題で検閲された形跡はまったくないことだ。
山形有朋は国民がああだこうだと皇統についてあげつらうことに苦虫をつぶしていたが、言論弾圧はしていない。
明治44年、言論の自由が謳歌している様子は見ていてすがすがしい気持ちがしますね。
コメント