1995年ごろから自由主義史観研究会の仲間たちと歴史授業の改革に取り組み始めた。
はじめは「近現代の授業」を改革すればいいという考えだった。たぶん藤岡先生や同志たちもそうだったと思う。
・明治維新と明治の国家形成は講座派の「市民革命の失敗から侵略国家になった」というストーリーで教えられていた教科書史観を変えること。基本的なイメージは「西洋の帝国主義国家による経済・軍事的な外圧に抵抗し、植民地化を回避、彼らと対等な独立国家(主権国家)を建設した」というストーリーだった。
・昭和の戦争については、東京裁判の判決に基づいた歴史観「満州事変以後、軍国主義(ファシズム)日本が侵略戦争を起こして、自由と民主主義の文明国家連合に敗れた」を変えること。先人の立場に寄り添ったストーリーで自虐的な洗脳歴史授業をやめる。ただし、明治のような具体的なストーリーのイメージはなかなか固まらなかった。
翌年教科書を作るとなったとき、授業もやはり「一セット通史で作りたい」なと考えた。なぜなら自分が子供たちに教えなければならないからだ。ただそれだけの理由でした。いい教科書が使われるまで待つことはできなかった。
教室で子供たちに向き合いながら作っていったので、古代・中世・近世それぞれにも改善したいことが出てきた。
・近世の重点は、キリスト教問題と「階級闘争史観・貧農史観」が問題だった。江戸時代のイメージは当時学界が大きく変わりつつあったので克服は容易だったが、キリスト教伝来と鎖国の授業は手掛かりがまったくなかった。しかし、この時代のキリスト教弾圧の教科書記述も昭和の戦争と変わらないくらいひどいものだったのです(これは現在も)。
が、これは秀吉の政策を追いかけると「ああこれは幕末の外圧問題と一緒だ」とすぐにわかってきた。大航海時代から西洋の世界侵略が始まっていて世界征服の担い手がカトリックから「近代」に選手交代しただけだった。しかも秀吉・家康の政策はそもそも「個人の信仰の自由を守る」だった。話が逆なのだ。幕末との違いはこの時代は日本のほうが軍事大国になっていたからだった。そうでなければ派遣国家スペインは追い出せないとわかった。だからこれは比較的早く克服できた。20年ほど前「キリスト教伝来と鎖国」の授業を研究会で発表した。皆おどろいていた。
・中世はあまり大きな問題はなかった。教科書通りでも大過ないと考えていた。ただ古代で出てくる問題を取り組んでいく中で「幕府と朝廷の両立」「承久の変」「日本国王足利義満」「南北朝」が大きなテーマとして浮上してくることになった。こういうのをひとつずつつぶしていった。
・古代に取り組んだときそもそも何が問題かははっきりとは見えていなかった。神話を教えればいいのかなくらいの軽い気持ちだった。それはぼくが当時まだ基本的な教養を欠いた戦後的日本人だったことと関係がある。簡単にいうと「天皇」についてほとんど何も知らなかったということです。そしてちょっと勉強すればすぐわかってきたが「日本の歴史」とは「天皇の国の歴史」だという「いちばん教えられていない重大事」だった。天皇の国のことを「皇国」というのだから、そうとらえて歴史の授業をやるということは「皇国史観(広い意味で)」に立つことになる。
そう気づいて「なんだそういうことか」と目の前の靄がすっと晴れたような思いだった。そしてそんな当たり前の話を意識できていなかった自分を恥じた。日本は「愛国」と「尊王(皇)」が切り外離せない国だったのだ。
これを読んで、たぶん、自由主義史観研究会ってそんなレベルだったの?とわらう方が多いと思う。
だって当時は日教組や朝日から「軍国主義教師の集団」とたたえられるほど「怖い」人たちだったのだから。しかしぼくのなかの戦後的な呪縛はそれほどひどいものだったのでした。笑われても仕方がない。理屈ではなくひとつひとつ授業を作りながら、子供と一緒に学びながら、肝心なことがわかっていく感動があった。天皇中心の国!
21世紀になってしばらくしたころ(いつかははっきりしない)、自由主義史観研究会で自分なりの古代の授業づくりの成果をもとに「今後は『天皇中心の国』という大きなストーリーをはっきり打ち出したいと提案したことがあった。だが意外なことに、そのときのメンバーのみなさんはとても否定的でその提案はボツになった。「まだ早い」と言われたような気がする。ちょっとがっかりしたのを覚えている。
(つづく)
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