◆以下は大津徹『律令制とはなにか』(山川出版社・日本史リブレット73 2013)に学んだものです。
もし価値ある内容があればそれは大津氏の学問に基づいています。
しかしだいぶ自分の関心に引き寄せて読んでいるので間違いもあるかもしれません。間違いがあればその文責は齋藤にあります。
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律令制とはなにか
7世紀半ば天智天皇から始まった律令制の導入は、天武天皇の飛鳥浄御原令で形を表し持統天皇の大宝律令でほぼ完成した。7世紀後半のおよそ30年ほどの格闘だった。
しかしわが国は隋・唐の律令をコピーしなかった。「日本の律令」にしてしまったのである。
1 礼の体系は入れない
まず重要なのははじめは「礼」の体系(家に基礎を置く儒教的社会規範)を入れなかったことだといわれる。隋・唐の律令は皇帝が「礼」の秩序(家を基礎とする儒教的社会規範)で支配するための道具だったのだが、わが国はこれを天皇の国の「統治技術」としてだけ取り入れて「文明国」になろうとした。日本には日本の「秩序」があると考えていたのかもしれない。あるいはたんに儒教がわからなかっただけかもしれない。
天武天皇と持統天皇は日本列島の古くからの伝統を重視していたようだ。
その後、藤原仲麻呂や桓武天皇・嵯峨天皇は律令の「チャイナ化」が不十分とみてもっとシナに近づこうとした。
2 日本の律令は専制君主による法ではない
チャイナでは律令は皇帝の代が変わると作り直される。
皇帝は法の制定者であり、法を裏付ける最終権威であり、自身は法に拘束されず法を超越している。
「非常の場合は皇帝が自由に裁断できる」のである。
日本は飛鳥浄御原令・大宝律令・養老律令で立法作業は終わる。
その後天皇が作り直すことはなかった。
また律令の運用主体は太政官以下の官僚組織にあった。聖武天皇は太政官のクレームを受けて勅を撤回している。この時代からすでに天皇はチャイナの皇帝とは異なり律令に拘束される存在だった。
つまり日本の律令ははじめから「専制君主の方ではなかった」ことがわかる。
(つづく)
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