まあ紆余曲折で教師になったのでしたが、そのころ「デモシカ教師」という言葉があって、正直に振り返ってみるとこれにほぼ当てはまっていたかなと反省しています。
板倉さんの本と出会って「授業を考えることは面白そうだ」というのがまずありました。考えたり書いたりすることが好きだったのですが、その方面で飯を食うことは能力的に難しかったが、「授業をつくる」という守備範囲で頭を使えるのは楽しそうに思えました。それまでの自己像とはちょっとかけ離れていたのですが目をつぶることにしました。
より重要なファクターは妻のおなかがふくらんで父になることになったことでした。それまでのような5年ごとに転職してしまうようないいかげんな生き方ではマズイなというのがありました。
今までと比べれば学校の先生は「ちゃんとした仕事」でしたから、これなら一生ものだろうと考えました。妻が賛成してくれたのもうれしかったな。実際はなかなか難しい道のりでしたけれど。
勤めながら2年で免状をいただき浦和の県教委に持って行きました。「産休代用」ならいくらでもあったのですが、すぐには採用されません。履歴書がひどすぎたのでまあ仕方がなかったんですね。
しかしもう我が人生はこれしかなくなったのですから背水の陣です。バイトをしながら教育委員会に通いました。
なんとかやっと2週間の仕事がもらえたのが半年後でした。
この2週間をシャカリキにやって「好印象」を持ってもらえるようにがんばったら、校長さんが推薦してくれて、次の仕事が来るようになりました。そうして翌春からは一年間の担任の仕事がもらえるようになったのでした。
子供のころからナマケモノだったのが、長い人生のここだけは「真面目な努力家」でした。いまふりかえってもこのころのまじめな自分にはとても好印象を持っています。
しかし困った。採用試験に受からない。昔から受験勉強みたいなのが苦手だったのと、やっぱり地頭が悪い。
覚えなきゃいけないことがたくさんありました。
それと実技試験がからっきし。50mの水泳。縄跳びを〇分間つっかえないで跳ぶ。鉄棒などなど。あ、それとバイエルをひとつ弾く(はいピアノです)というのもありました。これみんなだめでした。
もともと運動能力がたいへん低いのですが、そもそもぼくらが育ったころは学校にプールなんかありませんし。こりゃダメだと匙を投げました。生涯産休代用だっていいんじゃね、と言ったのですが、それまでは今で言うニートみたいでも(いちおう給料はもらっていましたが)全然気にしなかった妻が、今度ばかりは許してくれません。
スイミングスクールとピアノ教室に通って少しずつできることを増やしていきました。しかしそれでも試験に合格しない年が続きました。
産休代用の仕事は楽しくできたので給与などの待遇は悪くてもあんまり気にはならず・・・赤ん坊が少しずつ育つのを見ながら・・・まあ、この選択は悪くなかったなと思って日をやっていました。そうしたら5回目の採用試験でやっとこさ合格できました。当時の採用年齢ギリギリだったそうです。運がいい。
妻も「まったくもう。ジェットコースターみたいなんだから」と喜んでくれました。嬉しかったね。
それが1985年で同期はちょうど一回りとちょっと若い年回りの若者ばかりでした。
翌年春から大宮市立大成小学校に赴任できほっと胸をなでおろしたのを覚えています。自分が卒業した小学校でした。
やっぱり生涯代用教員というのも厳しかったことでしょう。よかったよかった。
「日本が好きになる!歴史授業」の話いろいろ⑫先生になった頃の話(老人の極私的な思い出です)

クリックお願いします!別ウィンドウが開きます

コメント